奥の細道余聞 芭蕉とゆさや

maru01遊佐の物語
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山形県飽海郡遊佐(あくみぐんゆざまち)町。日本海に面して連なる広漠とした砂丘にその起源を持つ遊佐一族は十六世紀の中頃まで庄内地方屈指の豪族としてかの地を治めておりましたが、やがて権力闘争に敗れ一族郎党一人残らず遊佐町を離れました。
そしてその多くは、この地鳴子(なるこ)に移り住み、一人は大崎氏の関守として、又伊達家の統治下にあってはその子孫遊佐勘解由宣春(ゆざかげいゆのぶはる)が岩手の関(通称尿前(しとまえ)の関)の関守として代々伊達藩の西の守りをかためてまいりました。
一方、遊佐美作守継光(ゆざみまさかのかみつぐみつ)は足利幕府(あしかがばくふ)の管領(かんれい)として権勢を誇った畠山氏に仕え、大阪河内(かわち)の若江(わかえ)城主、能登七尾城守護代(のとななおじょうしゅごだい)を経て上杉謙信(うえすぎけんしん)の能登攻め後は「遊佐七騎(ゆざななき)」として謙信の親衛隊の役を果たしておりました。
間もなく謙信が没すると、最上を経て鳴子に移って寛永九年(西暦1632年)湯治人宿を建設し「遊佐屋(ゆざや)」を起こすことになりました。
後に当主は代々遊佐勘左衛門(ゆざかんざえもん)を名のり伊達家によって「湯守(ゆもり)」に称ぜられましたが、以後尿前の関守家とは結婚や養子縁組を通じ姻戚関係を深めてまいりました。

関守 遊佐勘解由宣春
湯守 遊佐勘左衛門

同じ庄内の遊佐町に発しながら、全く違うところで戦国時代を過ごし、そして又この地で伊達家により「守(かみ)」に称ぜられた二つの遊佐家。
その後は「尿前の大庄屋(おおじょうや)」と「湯元屋敷の遊佐屋(ゆざや)」(現在は「ゆさや」)として永く人々に親しまれてまいりました。

   maru01芭蕉と鳴子  

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俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の中でこの鳴子の地を通ったのは、元禄二年(1689年)七月一日の事でした。江戸で面識のあった紅花商人、鈴木清風を尾花沢に訪ねる途中、隣町の岩出山に宿を取り、そこの家人に小野田から銀山温泉を越えて尾花沢に出るよりも鳴子から中山越え、山刀伐峠を経て行く出羽街道の方が路が良いと聞いて鳴子へ向かったと言われております。しかしその行程は芭蕉・曽良主従にとって最も困難極めるところだったようです。
南部道遥かに見やりて岩手の里(現岩出山)に泊る。小黒崎・みづの小島を過て鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす。この路旅人まれなるところなれば、関守に怪しめられて、漸うとして関を越す。大山を登って日すでに暮れば、封人の家を見かけて舎りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。
蚤 虱 馬 の 尿 す る 枕 も と

   maru01関守と芭蕉  
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芭蕉は鳴子温泉の川向い、岩渕屋敷を通過し、十綱渡(とずなわたし)しで荒雄川(あらおがわ)を渡り尿前の関に入りました。
そこで関守宣春によって長時間にわたり取り調べを受けました。芭蕉には忍者説や幕府の隠密説等様々な説がございますが、宣春の立場を考えればその長時間の吟味は当然だったと言えましょう。
時は1600年代後半、徳川幕府の基盤は三代家光により盤石に整えられたように思われましたが幕府にとっては有力な地方大名の動向が気になるところ。老中酒井雅楽守(うたのかみ)を中心としてさかんに外様(とざま)つぶしが仕掛けられ、やがて原田甲斐(はらだかい)、伊達兵部(だてひょうぶ)の伊達騒動や、忠臣蔵の浅野家の悲劇が生まれています。
従って仙台から宣春には幕府の隠密に充分注意を払うよう指示がきていたと想像するに難(かた)しくありません。

   maru01芭蕉を変えた出羽街道  

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尿前から山刀伐切峠を超えて尾花沢に至る険路は全行程の中でも陸奥から出羽へと奥羽山脈を横断する最大の難関だったにちがいありません。
芭蕉が全ての旅を終え自分と曽良が踏破した数千キロの行程を振り返った時に、まず最初に思い浮かんだのがこの難所だったのではないでしょうか。
そこからこの紀行文が「奥の細道」と題されたと信じています。この険しい山道を行く中で芭蕉は自分自身の内部に大きな変化が生じているのを悟るのでした。それはその後の作風に顕著(けんちょ)に表れてまいります。
立石寺   閑 か さ や 岩 に し み 入 る 蝉 の 声

月 山   雲 の 峰 い く つ 崩 れ て 月 の 山

越後路  荒 海 や  佐 渡 に 横 た ふ 天 の 河

このように感性はさらに研ぎ澄まされ、自然の雄大さやそのいとなみに思いを至る句が目につくようになるのです。

   maru01旅とは……  

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「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人なり。」
奥の細道の旅は「旅」のあり様について二つの提言をしているように思うのです。一つは芭蕉以前の西行法師をはじめ多くの文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がそうであったように単に東北地方を旅するという空間的なものではなく、たとえそれが朽ちていようとも、名所旧跡を巡る中で歴史を振り返り未来に思いを馳せることにより人間の崇高(すうこう)さを思い起こすことを目的とするものであります。
いま一つは現在の自分にしみついてしまった生活のアカを風光明媚な自然の中に身をゆだね素朴な人情の機微に触れることにより洗い流すことを念じて赴く旅であります。
東北地方も随分と変わりました。近代化の波が押し寄せ都会化してしまった部分も少なくありません。
しかし、現在の日本の中にあっては古代以来の遺産と手つかずのままの自然がまだまだ残っています。
東北に生を受け、人々を迎え入れることを生業(なりわい)とする者の一人としてこの東北の良さを一つでも多く残し都市生活の中では得られなくなってしまった人間の尊厳を思い起こすことや、豊かな人間性を回復するのに何がしかのお手伝いができるならば真にこれに過ぎるものはありません。
芭蕉の心を動かした小黒崎、みづの小島、尿前の関跡、当時のままに復元された出羽街道、そして封人の家を訪ねていただき、先人達の旅心にふれ、美しい自然と歴史の中に深々と身を沈めて明日への希望と鋭気を育んでいただきたいものと存じます。

                                      ゆさや旅館十七代館主   遊佐勘左衛門

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